海軍艦上戦闘機(烈風)
烈風が計画されたのは昭和17年だったので、まだまだ零戦に勢いがあった頃だ。したがって、空戦性能を優先させる要求が用兵側から出てもおかしくない。
海軍艦上戦闘機(烈風)諸元
A7M1 | A7M2 | |
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エンジン | 空冷18気筒 中島誉二二型(離昇馬力 2,000HP/3,000r.p.m 公称馬力 1,570HP/6,850m) | 空冷18気筒 三菱ハ43-11(離昇馬力 2,200HP/2,900r.p.m 公称馬力 1,800HP/5,100m) |
最大速度 | 574km/h(高度6,190m) | 628km/h(高度5,660m) |
航続距離 | 1,556km | |
全幅 | 14.00m | |
全長 | 10.995m | 10.984m |
全高 | 4.92m | |
主翼面積 | 30.86㎡ | |
自重 | 3,110kg | 3,266kg |
全備重量 | 4,410kg | 4,720kg |
上昇時間 | 6,000mまで9分54秒 | 6,000mまで6分07秒 |
実用上昇限度 | 10,900m | |
武装 | 20mm機銃×2、13mm機銃×2または20mm機銃×4 | |
爆弾 | 60kg×2または30kg×2 |
A7M3 | A7M3-J | |
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エンジン | 空冷18気筒 三菱ハ43-51(離昇馬力 2,200HP/2,900r.p.m 公称馬力 1,660HP/8,700m) | 空冷18気筒 三菱ハ43-11ル(離昇馬力 2,200HP/2,900r.p.m 公称馬力 1,720HP/9,500m) |
最大速度 | 643km/h(高度8,700m) | 633~648km/h(高度10,000m) |
航続距離 | 1,556km | |
全幅 | 14.00m | |
全長 | 10.984m | 11.964m |
全高 | 4.92m | |
主翼面積 | 30.86㎡ | 31.30㎡ |
自重 | 3,392kg | 3,955kg |
全備重量 | 5,400kg | 5,732kg |
上昇時間 | 10,000mまで13分06秒 | 10,000mまで15分0秒 |
実用上昇限度 | 11,300m | 11,500m |
武装 | 20mm機銃×6 | 30mm機銃×2(斜銃)30mm機銃×4(翼内) |
爆弾 | 60kg×2または30kg×2 | 250kg×2 |
海軍艦上戦闘機(烈風) こぼれ話
12試艦上戦闘機零戦と17試艦上戦闘機烈風の間に13試艦上戦闘機の試作命令が三菱に出されていたが零戦に設計陣が集中していたことと設計が進んでいた零戦以上のものはできないと判断され辞退している。さらに昭和15年には16試艦上戦闘機として三菱に内示があったが、雷電のエンジンすら満足にない状況だったため1年間据え置かれることとなった。艦上機は陸上機と違った幾つかの制限があるので手慣れた会社が設計するのが望ましい。九六艦戦、零戦と2回続けて優秀艦上戦闘機を設計した三菱に零戦の後継機を依頼することは的を射た選択である。しかし、12試から17試とその間が5年も空いてしまったのは、航空機に関する技術が日進月歩だったことを考えると出遅れた感は否めない。5年の空白ができた原因は、三菱で開発していた雷電にあった。雷電は14試局地戦闘機として三菱に発注されたのだが、競争試作ではなく指名発注された機体である。艦上機なら様々な制約があり、経験値がものをいうので別だが、陸上機であれば中島飛行機はお手のものだったはずである。使えるエンジンが例え雷電と同じ火星エンジンだったとしても、鍾馗の発展形のような機体を開発したかも知れない。日本陸海軍の航空行政のまずさ、縄張り争いが非常な無駄を生み出し、優秀な軍用機が生まれてくる可能性をどれだけつぶしたかわからない。
烈風の要求性能は5年のブランクを埋めるべく、零戦に比べてかなりの向上を要求されたのは当然であるが、軍令部から高度6,000mで最高速度345ノット(638.9km/h)以上、6,000mまでの上昇時間6分、火力と航続距離は零戦以上、航空本部からは格闘性能は零戦並みという数学・物理を無視した要求だった。当然に三菱は官民共同研究会の席でこれらの要求を全て満たすことは無理であることを述べた。速度、上昇性能をアップさせるには零戦より強力なエンジンが必要となり、航続距離を伸ばすには強力なエンジンで燃費が悪くなるのもみこして零戦より燃料を必要とする。重量が確実に増加する中で、零戦のような格闘性能を得ることができるかどうか、数字を示せば絶対無理なことは誰にでも分かるはずだが、そうでないところが命をやりとりする戦争なのだろうか。三菱の基礎設計では速度、上昇力を満たそうとすれば翼面荷重は150kg/㎡程度にある予定だったので、零戦の初期の値110kg/㎡とはかなりの差があり、翼面荷重でほぼ格闘性能が決まってしまう事実からすれば零戦並みというわけにはいかなかった。海軍の中にも速度、上昇力を優先すべしと主張する者と格闘性能を重視すべしとする者がいて会議が紛糾したが、空技廠実験部の周防少佐が翼面荷重を130位にしてそのかわり最高速度330ノット/h(612km/h)でよいとする妥協案が出てきた。この翼面荷重150kg/㎡案と130kg/㎡案で再計算したものが再度会議にかけられ、結局妥協案の翼面荷重130kg/㎡案に決定した。昭和17年であればまだまだ零戦の強さばかり目立っていた時期で、格闘性能を要求する用兵側は零戦に絶対の信頼を置いていたに違いない。しかし、約1年半後には零戦の神通力が薄れ、重武装、高速の戦闘機を要求したのも用兵側であったのを責めるわけにはいかないだろう。
烈風の実用化を遅らせた原因のもうひとつはエンジン選定だろう。計画当時2000馬力級エンジンとしては、試作中の中島NK9H(誉)と三菱MK9A(ハ43)の2種あったので、堀越技師は三菱のエンジンを選択した。ところが海軍側は中島NK9Hを推し、三菱としては不本意ながら押し切られた格好で搭載エンジンは中島NK9Hに決まってしまった。三菱MK9Aは中島NK9Hに比べて排気量に余裕があり、性能向上も見込めるエンジンでしかも自社製だったこともあって、なんとか烈風に使いたかったに違いない。額面通りだとすると高度5,700mで1,460馬力の誉と高度5,000mで1,800馬力のハ43のどちらを選択するかは一目瞭然なのだが、海軍自身がこの誉に首をつっこみすぎ、誉エンジンの正否が中島1社だけの問題ではなくなっていたことは確かだ。昭和19年4月に試作第1号機が完成し、空技廠飛行実験部員の志賀淑雄少佐、小福田租少佐によってテスト飛行が行われ、舵の効きや重さは零戦並みで操縦性、安定性もよくクセがない機体、という評価が下った。ところが、最大速度が300ノット(555.6km/h)にも達していないことが分かり、さらに上昇時間も6,000mまで9分30秒から10分ほどかかり、6分以下の計画を大幅に下回ることも判明した。明らかにエンジンの出力不足なのだが、海軍側は認めようとせず枝葉末節とも思える細部の工作不良を改修して試験飛行を続行するよう指示した。後にやっとの事で研究名目でのハ43搭載が認められ、所定の性能が得られる可能性が見えてきたときには、烈風に残された時間はほとんど無かった。