メーカー

日本の航空機メーカーの特色として、機体メーカーとエンジンメーカーが同一の会社しかなかったことである。つまりエンジンの専門メーカーがなかったのである。アメリカではプラット&ホイットニーやライト、イギリスではロールスロイス、ドイツではダイムラーやBMWなどが主要メーカーである。日本陸海軍の制式機に採用されたエンジンのほとんどが中島、三菱、川崎、愛知製である。このうち川崎、愛知製のエンジンは三式戦闘機飛燕(川崎)、艦上爆撃機彗星(愛知)のみに使用されただけで飛燕、彗星とも後期型は三菱製のエンジンに換装されている。つまり日本陸海軍機のエンジンは中島、三菱の両メーカー製で賄われたことになる。
もうひとつの特色として、陸軍、海軍それぞれにお抱えメーカーがあったことだ。陸軍では川崎航空機、立川飛行機などであり、海軍では川西航空機、愛知航空機などである。日本陸海軍と同様に陸軍航空隊、海軍航空隊を擁していたアメリカにおいては、グラマンが海軍御用達メーカーのように思われるがもともとが水上機屋だったため海軍機とのつながりが深かっただけである。開戦当初の艦上攻撃機デバステーター、艦上爆撃機ドーントレスは共に旅客機や輸送機を作っていたダグラス社である。後に使用された艦上爆撃機ヘルダイバーは陸軍機P40ウォーホークを作ったカーチス社である。
ここでは、中島飛行機、三菱重工業、川崎航空機、川西航空機を紹介する。

中島飛行機

疾風

海軍機関大尉を退官した中島知久平が興した会社である。川西清兵衛(後に川西航空機を興す)が資本参加(中島知久平は労務提供という形で経営参加)をして陸軍から偵察機の注文を受け、会社として軌道に乗る。しかし、川西清兵衛と中島知久平の経営方針の違いから分裂騒動が起き、清兵衛は知久平に所長を辞めるか工場を買い取るかの選択をせまった。清兵衛の目論見としては工場を買い取るだけの資金の持ち合わせはないとみて、実質は知久平を所長から引きずりおろす算段だったが、知久平は手回しよく買い取る資金を調達していた。この件で清兵衛は工場にあった精密機械と設計技師や製作技師を引き上げることになる。この後中島式五型飛行機が陸軍に100機納入され、中島飛行機大躍進のきっかけとなる。
大東亜戦争で使用された中島製の制式機は、陸軍機では、九七式戦闘機、一式戦闘機隼、二式単座戦闘機鍾馗、四式戦闘機疾風、百式重爆撃機呑龍などがあり、海軍機では、九七式艦上攻撃機、二式水上戦闘機、艦上攻撃機天山、艦上偵察機彩雲、二式陸上偵察機(後に夜間戦闘機月光へ)などがある。戦闘機、爆撃機、水上機、偵察機ありとあらゆる種類の機体を設計制作している日本を代表するメーカーであることは間違いない。
中島飛行機の設計陣は、小山悌技師長を筆頭に、太田稔技師、糸川英夫技師(途中退職)、青木邦弘技師、村松健一技師、福田安雄技師、西村節郎技師、内藤子生技師、渋谷厳技師、長島昭次技師、エンジン関係で新山春雄技師、中川良一技師、水谷総太郎技師、田中清史技師らがいた。

三菱重工業

零戦

大正9年に三菱内燃機製造株式会社名古屋工場で発足した後、三菱航空機株式会社名古屋工場に名称を変更し、昭和9年に三菱造船と合併し三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所となる。中島飛行機とよく比較され、航空隊から直接部品を受け取りに来たときなど、中島では伝票は後から送るからもって帰ってくれといった処理の仕方をしていたが、三菱では組織がしっかりしていたので、どんな小さな部品でも伝票が発行されてないと受け取れなかった。三菱はさすがに財閥だけあって経営がしっかりしており、ルールが徹底されていたのだろうが、個人商店が大きくなったような中島は、トップのさじ加減で融通の利く会社だったようである。そんな経営姿勢は物作りにも表れ、中島のとにかく作って飛ばしながら直していく拙速主義に近い形対して、三菱は手順を踏んできっちり仕事をしていたので軍部と日程でもめることがしばしばあったようだ。
大東亜戦争で使用された三菱製の制式機は、陸軍機では、九七式重爆撃機、九七式単発軽爆撃機、九九式襲撃機・軍偵察機、百式司令部偵察機、四式重爆撃機飛龍、海軍機では九六式艦上戦闘機、九六式陸上攻撃機、零式艦上戦闘機、零式水上観測機、一式陸上攻撃機、局地戦闘機雷電などがある。中島と共に日本陸海軍の主力機を生産したのがよく分かる。
三菱重工業の設計陣は、海軍機設計を堀越二郎技師、曽根嘉年技師、本庄季郎技師、小林貞夫技師、吉川義雄技師、楢原敏彦技師、森武芳技師、田中正太郎技師、畠中福泉技師らが担当し、陸軍機設計の担当は、河野文彦技師、東條輝雄技師、久保富夫技師、水野正吉技師、大木喬之助技師、宮原旭技師、仲田信四郎技師らであった。

川崎航空機

飛燕

川崎航空機工業は川崎造船から分離独立した陸軍の専属メーカーである。BMWの液冷エンジンのライセンスを買って液冷エンジンメーカーとして陸軍の中に地位を築いてきたが、キ32(九八式軽爆撃機)が採用になったにもかかわらずひどい振動で陸軍に液冷エンジンを諦めさせるきっかけをつくってしまった。しかし、スペイン内乱でドイツのメッサーシュミットBf109が大活躍をし、大馬力エンジンは空冷でいくと決めた陸軍に動揺の色が見えた。結果的には、Bf109に搭載していたダイムラーベンツDB601エンジンを国費で購入し、川崎航空機に国産化させることになる。こうして川崎航空機は大戦後期までこのDB601エンジンと良くも悪くもつき合わなくてはならなくなった。昭和8年にヨーロッパ視察の際、DB601エンジンの試運転が始まっていたが、数々の新機軸を見て日本の工業力に合うのはユンカースのエンジンではないかという危惧を抱いたある技師の予感が当たり、大戦末期には遂に液冷エンジンから空冷エンジンに換えざるを得ない状態となる。
大東亜戦争で使用された川崎製の制式機は九八式単発軽爆撃機、二式複座戦闘機屠龍、三式戦闘機飛燕、五式戦闘機などである。ちなみに屠龍と五式戦は空冷エンジン(ともに三菱製)を搭載した機体である。
川崎設計陣は、土井武夫技師、大和田信技師、井町勇技師、清田堅吉技師、エンジン関係で林貞助技師、田中英夫技師らであった。特定の設計チームは作らず、部門別(翼、胴体、脚、エンジン艤装、など)に設計陣がおり機体各部の設計は各設計課長がが中心になって進め、計画課で取りまとめる方式をとっていた。そして、計画から試作までを昭和17年に試作部長になった土井技師が指導する形であった。三菱や中島と比べて少ない設計陣を効率よく動かす最良のシステムで、今で言うプロジェクトシステムである。

川西航空機

紫電改

中島飛行機創設時、資本参加していた川西清兵衛が中島知久平と対立して袂を分かち、息子の龍三を社長にして興したのが川西航空機である。会社設立当初は陸上機も作っていたが、次第に水上機及び飛行艇を専門に作るようになる。水上機を作成するので滑走路が要らず、鳴尾浜の沖合が試験飛行の際は使用された。水上戦闘機強風の試作を進行中に真珠湾攻撃が実行され大戦に突入した。そこで、川西の幹部である川西龍三社長、前原謙治副社長、関口義男航空機部長、菊原静男技師の4人が集まり、次に作るべき飛行機の検討がなされた。社長、副社長は艦上攻撃機を、航空機部長は二式大艇の陸上機化で爆撃機を押したが、菊原技師の局地戦闘機案が採用され、強風をベースに陸上機を作ることを海軍に提案し了解を取り付け開発の遡上に上がったのが紫電である。副社長の前原謙治は元海軍航空技術廠の廠長(海軍中将)を務めた人物で、会社経営には無頓着であったが、反面熱血漢で憎めないキャラクターだったそうである。
大東亜戦争で使用された川西航空機製の制式機は、九七式飛行艇、二式飛行艇、水上戦闘機強風、高速水上偵察機紫雲、局地戦闘機紫電及び紫電改などである。戦前から水上機、飛行艇をメインに作っており、陸上機は紫電及び紫電改のみ(初期の制作機を除く)である。
川西設計陣は、菊原静男技師、井上博之技師、小原正三技師、馬場敏治技師、徳田晃一技師、大沼康二技師、足立英三郎技師、宇野唯男技師らがおり、川崎航空機と同様のプロジェクトシステムを取り入れている。