陸軍爆撃機(キ91)

米本土爆撃を可能にする富嶽計画と同時期に、陸軍が密かに川崎に命じて進行させていたのがキ91である。資源の集中という観点からは考えられない愚挙だが、役所は我が身が一番かわいいのである。

陸軍爆撃機(キ91)諸元

陸軍爆撃機(キ91)

エンジン空冷18気筒 三菱ハ214ル ×4(離昇馬力 2,500HP/2,800r.p.m 公称馬力 2,000HP/6,400m)
最大速度570km/h(高度10,000m)
航続距離9,000km(爆弾4トン搭載時)
全幅48.00m
全長33.35m
全高10.00m
主翼面積224.0㎡
自重34,000kg
全備重量58,000kg
実用上昇限度13,500m
武装20mm機関砲×9
爆弾8,000kg(最大)

陸軍爆撃機(キ91) こぼれ話

海軍が13試陸上攻撃機として中島に発注した「深山」は失敗作だったが、その深山を陸軍が目を付けて川崎に陸軍仕様の改修設計を命じたところ、基本となる深山の性能がぱっとしないので結局中止となった。そこで改めて川崎にアメリカ本土を爆撃できる4発爆撃機の試作命令を出した。要求した性能は高度10,000mにおいて最大速度580km/h以上、爆弾4,000kg搭載時で航続距離9,000km以上、また爆弾は最大で8,000kgまで搭載が可能というものだった。キ91は戦闘高度が10,000mなので当然気密室が必要となってくるが、当時川崎で計画中だったキ108高々度戦闘機の研究データをもとにキ91の気密室に反映させようとした。したがって、試作1号機は気密室なしで製作されることとなった。ところが昭和19年4月にはモックアップ審査を受けることができるほど順調に進行したので1号機から気密室を設ける方針に変更したところ、同年末からB29の爆撃が始まり、大型機の製作が困難になり、昭和20年2月、ついに計画中止の命令が下った。

キ91は昭和19年7月から設計がスタートしたが、同じような時季にアメリカ本土爆撃機が計画されていた。1つは陸海軍共同開発の富嶽であり、1つは企画院(内閣直属の物資動員・重要政策の企画立案機関、昭和18年11月1日に商工省と一緒になり軍需省となる)が川西に対して開発命令を出していた機体である。富嶽は中島がZ機と称して独自に計画し昭和18年2月頃から基礎設計をスタートさせた。川西の機体は昭和18年のはじめ頃に軍令部からアメリカ本土爆撃のできる長距離爆撃機の開発打診があった。そして正式に企画院から昭和18年の夏頃に開発依頼を受け設計をスタートさせた。川西案の機体は航続距離23,150km、上昇限度12,000m、最大速度高度10,000mで601.9km/h、爆弾搭載量2トンという計画であった。こうして異なるところから奇しくも同じ目的(アメリカ本土爆撃)の機体が発注されていた。川西案の機体は昭和19年1月に富嶽との比較検討会が行われ、富嶽へ一本化することが決まり計画は中止された。役所の縦割り行政は何も現在の霞ヶ関における専売特許ではなく、この時代から連綿と受け継がれている「伝統」なのである。