陸海軍共同開発戦闘機(キ200 秋水)

キ200(秋水)の原型であるメッサーシュミットMe162Bの簡単な図面から起こされた機体設計図とロケットエンジンの図面は設計陣達の血と汗で描かれたようなものだ。

陸海軍共同開発戦闘機(キ200 秋水)諸元

海軍特殊攻撃機(橘花)

エンジンKR10型薬液ロケット 特呂二号(離昇時推力 1,500kg 最大速時推力495kg)
最大速度800km/h(高度10,000m)
航続距離10,000mまで上昇後、600km/hで3分6秒、800km/hで1分15秒の水平飛行可能
全幅9.50m
全長5.95m
全高2.70m
主翼面積17.73㎡
自重1,505kg
全備重量3,900kg
上昇時間10,000mまで3分30秒
実用上昇限度12,000m
武装30mm機関砲×2(主翼付け根)

陸海軍共同開発戦闘機(キ200 秋水) こぼれ話

キ200(秋水)は、巌谷技術少佐がイ29潜に同乗してドイツ潜水艦基地ロリアンを出港し、昭和19年7月に苦難の末持ち帰ったメッサーシュミットMe163Bの機体及びエンジン設計説明書、ロケット推進薬の化学組成の説明書、翼型の座標値と巌谷技術少佐のメッサーシュミット社における調査報告書だけで作り上げたロケット迎撃戦闘機である。陸海軍共同開発と言うことになっているが、できるだけ原設計に近いものをと主張する海軍と、完全新設計を主張する陸軍との妥協案が、ロケットモーターは陸軍が、機体は海軍が管轄するというものだった。エンジン、機体とも三菱が担当したが、昭和19年7月にはテニアン、サイパンが敵の手に落ちていてB29がすぐにでも飛んでこようかというときに陸海軍の縄張り争いに巻き込まれていい迷惑だったに違いない。しかし、三菱設計陣の驚異的な努力によって、昭和19年9月にはモックアップ(実大模型)が完成し、そこから3週間で小改造や変更をして11月はじめには設計完了した。悪条件が重なる条件下で機体のほうは設計が完了したが、エンジンはそうはならなかった。設計そのものは機体より早く終わったにもかかわらず実物の製作が難航した。この特呂二型エンジンの試作には、海軍の空技廠、第一燃料廠、陸軍の第二技術研究所、第四技術研究所、三菱の名古屋発動機製作所および長崎兵器製作所、九州帝大の葛西教授らがくわわり、実際に生産担当の海軍の広工廠、陸軍兵器本部、ワシノ精機、新潟鐵工所などを加える挙国一致体制が築かれた。にもかかわらず、進行していくにつれ次々と新しい問題がでて全力運転すらできない状態に陥っていた。エンジンの開発遅延は秋水自体の生産中止を招きかねないと判断した秋水隊の司令柴田武雄大佐は何が何でも一度飛行する必要がある、と主張して2分間の全力運転ができればテスト飛行を強行することが決まった。昭和20年7月7日、少し狭いが海に面していることで追浜飛行場が選ばれテスト飛行が行われたが、狭い追浜飛行場と初飛行ということを考えて燃料を3分の1にした。ところがこれが事故の原因となりテストパイロットの犬塚大尉が重傷を負い、翌日死亡した。燃料タンクの薬液取り出し口が前方にあったため急上昇の加速で薬液が後ろに移動し燃料がモーターへ供給されなくなったことによるエンジンストップで墜落したものだった。

海軍は秋水に並々ならぬ期待を寄せ、実機ができる前に大量生産計画を立て、秋水の実験部隊である第312航空隊を開隊させた。実機がないので操縦訓練用に外形が秋水と同一のグライダー「秋草(あきぐさ)」(MXV8)を使用した。グライダーとはいえ秋草の重量は1,037kgもあり滑空速度は時速160ノット(296km/h)以上出る高速機だったが、実験隊の犬塚大尉は「諸舵の効き、安定、釣り合いともに良好」との報告をしている。素性は良かった機体だっただけにロケットエンジンの開発遅延が惜しまれる。

名古屋航空宇宙システム製作所史料室

愛知県西春日井郡豊山町豊場1にある名古屋航空宇宙システム製作所史料室には、零式艦上戦闘機五二型とともに秋水の復元機が展示されている。

秋水全景
隣に展示してある零戦と較べて非常に小さい。しかも、零戦の全備重量より1トン以上重いうえに主翼面積は零戦の約83%だから、操縦は難しかったと思われる。
エアブレーキ
対爆撃機との相対スピードが大きすぎると、有効的な機銃掃射の時間が十分に取れなくなるので、主翼下面にはエアブレーキが装備されている。空戦が終了して基地へ帰投する際にも、着陸スピードを抑える役割を果たす。
ロケットモーター
秋水に搭載されていたロケットモーター。当時、日本の最先端企業が集められ、オール日本体制で作られたが、製作は難航した。細かな工作技術や溶接技術がロケットモーターを作るレベルまで達していなかったのが実状ではなかったか。