三式戦闘機(飛燕)

大日本帝国陸海軍唯一の液冷エンジン戦闘機飛燕は、連合国側の見立てとしてメッサーシュミットBf109のコピーだと思われていた。同じDB601エンジンを搭載すればシルエットは似てくるが、平面図を見れば全く違う機体であることは一目瞭然である。

三式戦闘機(飛燕)二型諸元

三式戦闘機(飛燕)

エンジン液冷倒立V型12気筒 川崎ハ140(離昇馬力1,350HP/2,700r.p.m 公称馬力1,200HP/5,100m)
最大速度610km/h(6,000m)
航続距離1,600km
全高3.75m
全幅12.00m
全長9.1565m
主翼面積20㎡
自重2,855kg
全備重量3,825kg
上昇時間5,000mまで6分30秒
実用上昇限度11,000m
武装翼内12.7mm機関銃(ホ103)×2、機首20mm機関砲(ホ3)×2
爆弾250kg×2

三式戦闘機(飛燕) こぼれ話

三式戦(飛燕)に搭載されたエンジンはダイムラーベンツDB601Aをライセンス生産したハ40である。ダイムラーベンツからDB601Aの製造権を得るためにドイツへ打診すると、すでに日本海軍へ製造権を譲渡したので海軍と話をつけたらよいのでは?という返事が返ってきた。同じ国に同じ製造権を二度売りつけるのは商道徳に反するという至極もっともな意見であった。しかし、日本海軍と日本陸軍は互いに譲らず話はこじれ、結局日本陸軍はDB601Aの製造権を買う羽目になった。ライセンス料は当時の金で1件あたり50万円、2件で100万円(現在の貨幣価値で約120億円)を支払うこととなり、ヒトラーが「日本の陸軍と海軍はかたき同士か?!」といって笑ったそうである。日本陸海軍の溝は深く、終戦まで航空兵器行政は一本化できず、設計、生産に相当な無駄を生じることとなる。

三式戦(飛燕)の設計主務である土井技師は「戦闘機はあくまで戦闘機であって、これを重戦、軽戦と区別するのは不合理だ」として総合性能を高める設計を目指した。三式戦(飛燕)を設計中におこったバトル・オブ・ブリテンにおいて、飛燕と同じエンジンを搭載したメッサーシュミットBf109の善戦が伝えられたが、同時に制空権奪取の失敗も伝えられた。それはBf109のあまりに短すぎた航続距離で、英本土上空の制空権を抑えるだけの空戦時間が得られなかった。これによりイギリスを空軍力で屈服させ英本土上陸を実行する野望が夢と消えてしまった。このことを踏まえ、三式戦(飛燕)の設計に関して、燃料はできるだけ多く搭載できるよう配慮された。工作上の優れた点としては、胴体と主翼の結合方法が挙げられる。重心位置と主翼の風圧中心とをできるだけ一致させる設計を行うが、どうしても若干の違いが出てくるため、最終的には尾部にバラストを積んで重心合わせを行う。しかし、三式戦(飛燕)は主翼と胴体をレール式に移動できるようにしたため、重心位置が変わっても容易に重心合わせができるのである。この設計はのちの五式戦を制作するときに役立つこととなる。

日本陸軍唯一の液冷エンジンメーカーとして川崎航空機が手がけたDB601Aは、先進技術がたっぷり詰まったエンジンで当時の日本工業界には手に余る代物だった。大きな特長は、ボールベアリングを多用していること、燃料噴射装置を装備していること、スーパーチャージャーにフルカン継手を採用して無段階に空気圧縮率を変えることによりどの高度でも最適な空燃費が得られること、などである。これらの先進的な装置を駆使してこそDB601Aの高性能が約束されていたのだが、日本にはそれを支える金属材料の品質、工作精度がなかったのである。いや先進技術どころかエンジンを構成する点火プラグやゴムパッキン、ハイテンションコードなどの品質はきわめて悪かった。DB601Aを国産化したハ40も様々な故障を抱えていたが、ハ40の性能向上型であるハ140はついに実用化されるところまで熟成されなかった。国内唯一の液例エンジンメーカーとしてのプライドとエンジン製造部門への配慮がいわゆる「首なし飛燕」を大量に作る原因となり、空冷エンジンへの換装を陸軍、川崎とも決断せざるを得なくなった。

川崎重工創立120周年記念 飛燕レストアプロジェクト

2016年10月15日~11月3日にかけて神戸ポートターミナル・大ホールにて首記のイベントが行われた。このレストアされた機体は、航空自衛隊岐阜基地での保管を経て、1986年から知覧特攻平和会館で展示されていたキ61Ⅱ型改試作17号機である。

試作17号機は、終戦後米軍に接収され、米軍横田基地で展示された後、1953年に(財)日本航空協会へ譲渡され、各地のイベントで展示されたため、部品の紛失や機体への損傷が相次ぎ、次第に元の姿が失われてしまった。その後、米軍による修復が行われたが、設計図・資料などが乏しく復元は十分ではなかった。

試作17号機の修復に、川崎重工では有志による2つの修復作業チームが発足し、機体調査や文献調査を行った結果から修復方針を定めた。英国で保管展示されている五式戦闘機の現地調査も大いに参考になったという。


飛燕Ⅱ型全体

知覧特攻平和記念館で展示されていたときは緑の迷彩塗装が施されていたが、すべてレストア作業によって剥がされた。


冷却器

復元された冷却器。3つに分かれた両端が水冷却器で、中央が油冷却器だ。この大きなラジエーターが操縦席の下にあったので、暑い戦地では蒸し風呂状態だったという。しかし、2千メートル以上に上がると、外気温がぐっと下がり気にならなかったらしい。


ハ140

左はエンジン後方から見た写真。過給器は取り外されている。右は後方から見て右側面の写真。点火プラグは各シリンダーに2個ずつあるのがわかる。


過給器

ハ140のものではないが、調査資料としてDB603(実物)の分解モデルが展示されていた。排気量33.91リットルのエンジンに付いていた過給器としては、案外小さい感じがした。