九六式陸上攻撃機

九六式陸上攻撃機は開戦当初、台湾からフィリピンを攻撃したり、英東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルスを撃沈したり八面六臂の活躍をした機体である。

九六式陸上攻撃機諸元

九六式陸上攻撃機

一一型二一型二三型
エンジン空冷14気筒 三菱金星三型(離昇馬力840HP/2,350r.p.m 公称馬力790HP/2,000m)空冷14気筒 三菱金星四二型(離昇馬力1,100HP/2,500r.p.m 公称馬力990HP/2,000m)空冷14気筒 三菱金星五一型(離昇馬力1,300HP/2,600r.p.m 公称馬力1,200HP/3,000m)
最大速度348km/h(高度2,000m)373.2km/h(高度4,180m)416km/h(高度5,900m)
航続距離2,854km(爆撃)4,550km(過荷)4,379km6,228km
全幅25.00m
全長16.45m
全高3.685m
主翼面積75.0㎡
自重4,770kg4,353kg4,657kg
全備重量7,642kg7,778kg8,000kg
実用上昇限度7,480m9,130m10,280m
武装7.7mm旋回機銃×3(前上方・後ろ上方・後ろ下方)7.7mm旋回機銃×3(胴体中央部上方・側方)20mm旋回機銃×1(胴体後部上面)
爆弾60kg爆弾×12あるいは250kg爆弾×2あるいは500kgまたは800kg爆弾×1あるいは800kg魚雷×1
乗員5名7名

九六式陸上攻撃機 こぼれ話

九六式陸上攻撃機は革新的な、あるいは実験的な機体で、日本陸海軍初の引き込み脚、自動操縦装置と無線帰投装置、沈頭鋲、可変ピッチプロペラを採用している。沈頭鋲(ちんとうびょう)は金属外板を骨組みに打ち付けるときに使う鋲の頭が平らなもので、これを使用すると特に主翼では抵抗が少なくなり効果が高い。そのかわり外板表面に鋲の頭が入るようすり鉢状に穴を開ける必要があるので工数が多くなる。海軍の陸上攻撃機は戦艦を中心とした敵主力艦隊に対し、味方主力艦隊が砲戦を仕掛ける前に爆撃、雷撃で敵艦隊の力をある程度削いでおくのが狙いで、魚雷を搭載できるようになっているのが特徴である。これは、ワシントン条約、ロンドン条約において日本は米英に比べて戦艦、航空母艦の保有比率を6割の抑えられ、ロンドン条約では対象外だった1万トン以下の空母も条約の対象となる一方的な条件を押しつけられたことによる。真珠湾攻撃が行われる前までは、海上における決戦は戦艦の砲戦によって決まると信じられていたため、戦艦の保有トン数を制限されることはすなわち艦隊決戦に負けることを意味していた。したがって、戦艦も空母も制限された海軍は、航空機と潜水艦によってできるだけ先制攻撃を仕掛け、敵艦隊の戦力を奪って艦隊決戦を有利に行おうとした。そこで、陸上基地から発進して決戦の行われる海上まで飛行でき、雷撃ができる攻撃機を作る必要があった。こういう時代背景があって九六式陸上攻撃機は誕生したのである。

戦前の民間航空界は新聞社がリードしていた。東京大阪間の連絡飛行など新聞の発行に飛行機を使って速さを競っていた時代があった。昭和12年、朝日新聞社は当時開発中だったキ15(後の九七式司令部偵察機)試作2号機を陸軍から借り受け、愛称を公募して「神風号」と決め、イギリス新国王ジョージ6世も戴冠式に向けて親善飛行を計画した。4月6日立川をとびたった神風号は4月10日ロンドンに到着し、飛行距離15,357km、所要時間94時間(実飛行時間は51時間19分23秒)の国際都市間連絡飛行新記録を樹立した。これに刺激を受けた毎日新聞社は、九六陸攻の武装を全廃した輸送機型の1機を借り受けて「ニッポン号」と命名し、昭和14年8月25日に羽田を出発して、アラスカ経由で北米に入り、ロスサンゼルスから米大陸を横断、ニューヨーク訪問ののち、南下して中米・南米の各地を歴訪、ブエノスアイレスから南大西洋を横断してローマ着、それから南方コースを経て10月20日に羽田に戻った。全行程52,860km、飛行時間194時間、所要日数56日の世界一周飛行を成功させた。