一式陸上攻撃機

一式陸上攻撃機は太平洋戦線全域で活躍し、長大な航続力と姿に似合わない運動性能を誇ったが、防弾能力の低さや爆弾搭載量の少なさが欠点であった。

一式陸上攻撃機諸元

一式陸上攻撃機

仮称一三型二二型三四型
エンジン空冷14気筒 三菱火星一五型(離昇馬力1,460HP/2,450r.p.m 公称馬力1,300HP/6,000m)空冷14気筒 三菱火星二一型(離昇馬力1,850HP/2,600r.p.m 公称馬力1,540HP/5,500m)空冷14気筒 三菱火星二五型(離昇馬力1,850HP/2,600r.p.m 公称馬力1,540HP/5,500m)
最大速度453.7km/h(高度4,200m)437.1km/h(高度4,600m)479.7km/h(高度5,066m)
航続距離2,176km(爆撃)5,882km(偵察)2,500km(爆撃)6,060km(偵察)4,334km(偵察)
全幅24.88m
全長19.97m19.63m19.50m
全高4.506m6.000m
主翼面積78.125㎡
自重6,741kg8,050kg8,391kg
全備重量12,895kg15,451kg14,772kg
実用上昇限度9,660m8,950m9,026m
武装7.7mm旋回機銃×4(前方・上方・側方)20mm旋回機銃×1(尾部)7.7mm旋回機銃×3(前方・側方)20mm旋回機銃×2(上方・尾部)7.7mm旋回機銃×1(前方)20mm旋回機銃×4(側方・上方・尾部)
爆弾60kg爆弾×12あるいは250kg爆弾×4あるいは500kgまたは800kg爆弾×1あるいは800kg魚雷×1
乗員7名

一式陸上攻撃機 こぼれ話

一式陸上攻撃機は計画された当初、海軍の要求性能を満たすには4発機しかないとして三菱の設計陣は海軍に申し入れしたが、拒否され要求通りの双発機で決定した。海軍は島嶼部での4発機運用に関して、整備人員や補給資材、滑走路の建設など双発機以上のものが要求されるので自信がなかったことも次期陸攻を双発機に決定した要因としてあげられる。しかし、この過酷な要求が無理な設計となり、多くの人員を失う大きな原因となったことについて航空本部は責任を負わなければならない。

一式陸攻の外形的な特徴は、なんといってもずんぐりした機体である。空技廠での研究報告により九六陸攻のように後ろに行くにしたがって胴体を細くしなくても全体の抵抗は変わらないという結果を受けて、爆弾も魚雷も胴体内に格納できるだけの容積を持った胴体を設計した。同じ理論で設計されたのが局地戦闘機の雷電であり、水上戦闘機の強風である。エンジンナセルの空気取り入れ部の形状に関しては、陸軍の百式司令部偵察機で実証されたナセル先端から一定の長さだけ機軸に平行にしてやると、ナセル前面を細く絞っても空気の流れがスムーズになり、冷却に十分な流量が確保できることがわかり、一式陸攻のナセルも同様の設計にした。長大な航続距離を要求された設計陣は、現在のジェット機では一般的なインテグラルタンクを採用した。通常燃料タンクを主翼に設置するときは骨組みの間に入るように別に作って入れ込むが、インテグラルタンクは最初から骨組みと燃料タンクをくみ上げていくため、タンク容量を多くすることができる。海軍からの航続性能についてはこのインテグラルタンクを採用することで応えたが、防弾については考慮されていなかった。九六陸攻がいわゆる渡洋爆撃を行ったときに、戦果と引き換えに多大な犠牲を払っていて、防弾について第一線からも要求がきていたはずである。しかしながら、遠距離の援護ができる零戦も開発されたこともあって攻撃性能ばかり追求し、防弾に関心が向なった。

主翼に被弾するとすぐ発火してしまう一式陸攻の悲劇の発端は、昭和17年2月27日のことだった。占領間もないラバウルに奇襲攻撃を掛けるべくアメリカ海軍はレキシントンを中心とする部隊を差し向けた。この攻撃部隊を迎え撃つ第4航空隊の一式陸攻17機は戦闘機の援護がないまま出撃し、11機がワイルドキャットの餌食となり未帰還、帰還した6機も損傷が激しく作戦継続は不可能な状態だった。慌てた航空本部は空技廠に九六陸攻のときに研究していた消火装置を改めて開発し直すことを命じた。60kg重量が増えるということで装備するのを拒否していた消火装置をやっとのことで採用することができたが、燃料が漏れるのを防がなくては意味がない。アメリカ陸軍のB17には、天然ゴムや人造ゴムなど7層からなる防弾タンクを早くから装備されていて、タンクに被弾したら流れ出るガソリンに天然ゴムが溶けて糊状となり、同時にふくれあがって破孔をふさぐ仕組みになっていた。大戦後半には更に進化して、ワイヤ入りのゴムで覆い(ラジアルタイヤと同じ考え)タンク自体の強度も高まった防漏タンクを装備した。こうした状況下でスポンジゴムの研究で立ち後れていた日本は、空技廠材料部四科の田中十三技師、上島外二技術大尉らが中心となって独立気泡ゴムの特急研究に入った。苦心の末開発に成功した防弾用スポンジゴムは、すぐさま民間会社で量産に移され、一式陸攻一二型の603号機以降に装備された。この対策が講じられてまもない昭和18年4月、ラバウル方面の海軍部隊最高指揮官草鹿任一中将から航空本部に電報が届き、被弾して火災を起こした一式陸攻が消火に成功して無事帰還したという内容だった。現地での自動消火装置の取扱いや防弾用スポンジゴム作業要領などの指導講習のため、空技廠から堀技術少佐らが派遣されたが、その一員として派遣された中田技術少佐(自動消火装置を考案した)に一人の搭乗員が近寄ってきて「おかげで生きて帰ることができました」と涙を浮かべて感謝したという。