艦上攻撃機(流星)

魚雷投下後の回避運動の向上を要望する声が高まり、艦上攻撃機と艦上爆撃機に求められる性能が近寄ったことから、艦上攻撃機と艦上爆撃機の統合が図られてできたのが、艦上攻撃機(流星)である。

艦上攻撃機(流星)諸元

艦上攻撃機(流星)

エンジン空冷18気筒 中島誉二一型(離昇馬力2,000HP/3,000r.p.m 公称馬力1,620HP/6,100m)
最大速度542.6km/h(高度6,200m)
航続距離1,852km(正規)2,982 km(爆撃過荷:海軍資料)3,037km(爆撃過荷:愛知資料)2,980km(雷撃過荷)
全幅14.40m(主翼折り畳み時8.30m)
全長11.49m
全高4.07m
主翼面積35.40㎡
自重3,614kg
全備重量5,700kg
上昇時間6,000mまで10分20秒
武装翼内20mm機銃×2、後上方13mm旋回機銃×1
爆弾胴体500~800kg爆弾×1または250kg爆弾×2、翼下30~60kg爆弾×4または850~1,060kg航空魚雷×1
乗員2名

艦上攻撃機(流星) こぼれ話

艦上爆撃機と艦上攻撃機の機種統合に伴い、愛知航空機に海軍が示した要求性能は次のようであった。1.1機種で急降下爆撃、水平爆撃、雷撃の全てがこなせること、2.爆弾搭載量も魚雷搭載量も800kgとすること、3.最大速度は550km/h以上、4.航続距離は正規で1,852km(1,000海里)以上、5.武装は主翼固定20mm機銃×2、後部旋回13mm機銃×1、6.零式艦上戦闘機に匹敵する運動性能、7.構造堅牢にして整備及び製造が容易であることとなっており、艦上攻撃機にまで零戦の運動性を求める愚かしさを繰り返している。

昭和16年(1941年)初頭に計画が内示され、愛知航空機はその年の10月に基礎研究を開始し、翌年2月から設計が始まった。初号機が完成したのは昭和17年(1942年)12月だったから、順調に進捗したと言っていい。しかし、できあがった機体の主翼は九九式艦上爆撃機の主翼とよく似た楕円翼だったのだが、これの強度不足が判明し、主翼は全面的に再設計となり、完成が6か月遅れることになる。したがって、主翼の大幅な設計変更があったので、量産機は正確には「流星改」と呼ばれる。

昭和19年12月に東南海地震が起き、6か月の遅れを取り戻そうと量産体制を整えた矢先に工場は壊滅的打撃を受けた。流星の生産数は試作機、量産試作機の9機を含めてもわずか111機に終わってしまった。それでも、4つの航空隊に配備され搭乗員の錬成が行われた。

流星の出撃はもっぱら日本近海にいる敵機動部隊に対する雷撃で、昭和20年7月25日、英機動部隊空母4隻に雷撃を敢行した12機の流星が記録されている。また、流星だけで編成された特攻隊があり、昭和20年7月25日、大王崎東沖の米巡洋艦及び駆逐艦へ4機、同年8月9日、金華山東方沖の米機動部隊へ6機、同年8月13日、関東東方洋上の米機動部隊へ4機、同年8月15日、千葉勝浦沖の米機動部隊へ1機の出撃記録が残っている。