艦上偵察機(彩雲)

大日本帝国海軍は高速で長大な航続力を持った戦略偵察機を持っていなかった。陸軍には百式司令部偵察機という優れた戦略偵察機を縦横無尽に活用し成果を上げていたので、一時期これを借り受けて使用した。しかし、空母で使用することができないため、艦上偵察機の開発に乗り出し完成させたのが彩雲である。

艦上偵察機(彩雲)諸元

艦上偵察機(彩雲)

エンジン空冷18気筒 中島誉二一型(離昇馬力2,000HP/3,000r.p.m 公称馬力1,620HP/6,100m)
最大速度639km/h(高度6,000m)
航続距離5,308km
全幅12.5m
全長11.12m
全高3.96m
主翼面積25.5㎡
自重2,908kg
全備重量4,725kg
上昇時間6,000mまで8分09秒
実用上昇限度10,740m
武装7.92mm機銃×1
乗員3名

艦上偵察機(彩雲) こぼれ話

艦上偵察機(彩雲)は大戦が勃発してから開発が始まり、終戦までに制式となり量産されて実戦運用された日本陸海軍で唯一の機体である。艦上偵察機(彩雲)の要求性能は高度6,000mにおいて最高速度350ノット/h(648km/h)、航続力は正規で2,000海里(3,702km)、過荷状態で2,500海里(4,630km)以上という厳しいもので、その上艦上機すなわち航空母艦からの発着が可能でなければならない。誉エンジンが登場していないときに計画していた艦上高速偵察機(実用機試製計画番号N-50)では、1,000馬力級エンジンを串形に並べて強制冷却を行い、両翼のプロペラをギアと延長軸を介して回そうという画期的な設計であった。その試行錯誤をしているときに誉エンジンが誕生し、昭和17年6月、17試艦上偵察機彩雲(C6N1)として試作が開始された。

艦上偵察機(彩雲)の特徴は、正面面積の小さな誉エンジンに合わせて胴体を極力細くしている。一式陸攻や雷電の設計思想とは全く異なり、有害抵抗の大きな要素である胴体は極力表面積を小さくする設計方針が貫かれた。さらに、艦上機であるため、三点姿勢の全長を11mギリギリにとり、これに直角に垂直尾翼の後線を決めたことにより、垂直尾翼は一見したところ前方に傾いたように見える独特の形状となった。(艦上攻撃機天山と同じ手法である)全備重量が5トンを超える機体の主翼面積は、零戦の22.4㎡をわずかに超える25.5㎡とし、200kg/㎡を超える翼面荷重としたのは350ノット/hという最高速度要求を満たすためである。ところが、高翼面荷重の機体は低速での揚力が小さいため、離着陸距離を多く取らなければならない。着艦はフックがあるので良いとしても、離陸距離を空母の甲板長さ内で納めなければならない。そこで考案されたのが、主翼前縁約3mにわたるスラットと、主翼幅約50%に達するファウラーフラップである。ファウラーフラップは後縁に部分に小さな隙間式フラップを装備した親子フラップで、着艦時には45度、発艦時には25度の角度で使用された。さらに、フラップ下げのときに連動して下げられるエルロン・フラップ式補助翼も装備していた。これらの高揚力装置により風洞実験による最大揚力係数は2.35という高い値が得られた。外見からは分からないが、最高速度を上げるために、厚板構造を採用した。これにより、主翼表面の平滑度が高まり、層流翼の効果を十分発揮させることとなった。また、この厚板構造は、板自体にある程度の強度を持たせることができたので、鋲の数を減らすことができ、工数を大幅に削減することに寄与している。数々の努力と知恵により高速艦上偵察機となった彩雲は、マリアナ方面で偵察中、敵機グラマンに見つかったとき得意の俊足でグラマンの追跡を振り切り「我に追いつくグラマンなし」と打電した逸話は有名である。

艦上偵察機(彩雲)の実戦配備は、試作機、増加試作機を使用した121空で、昭和19年5月30日~31日に実施された第一次挺身偵察(テニアンからマーシャル諸島へ)で、ナウルに前進してからはメジュロ環礁に停泊中のアメリカ機動部隊の所在を偵察した。本土防空においては、343空の偵察第四飛行隊が有名である。343空の司令源田実大佐がフィリピンから呼び戻し、戦闘機隊である343空の偵察部隊として活躍した。343空ではこの艦上偵察機(彩雲)とレーダーからの情報を分析し、迎撃戦闘の出発タイミングを計り、有利な戦闘ができるようなシステム作りをしていた。彩雲の高速性能に目を付け、斜め銃を装備した彩雲夜戦が少数機改造されたが、戦果は確認されていない。