二式飛行艇
海軍は大型飛行艇を艦隊決戦の露払い的存在と捉え、長大な航続力を駆使して索敵、魚雷攻撃を加えることが出来る要求をしていた。九七式飛行艇の戦訓を踏まえ重武装と防弾を装備した機体だった。
二式飛行艇一二型諸元
エンジン | 空冷14気筒 三菱瑞星13型(離昇馬力1,080HP/2,700r.p.m 公称馬力950HP/6,000m) |
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最大速度 | 370km/h(3,000m) |
航続距離 | 1,070km |
全幅 | 11.00m |
全長 | 9.50m |
全高 | 4.00m |
主翼面積 | 29.54㎡ |
自重 | 1,928kg |
全備重量 | 2,550kg |
上昇時間 | 5,000mまで9分36秒 |
実用上昇限度 | 9,440m |
武装 | 7.7mm機銃×3(機首×2、後方旋回×1)30kg爆弾×2 |
乗員 | 2名 |
二式飛行艇 こぼれ話
二式飛行艇は昭和13年に試作命令が川西に発せられたが、同時に中島に対して陸上攻撃機(深山)の試作命令が発せられ、その要求書は飛行艇を陸上機に書き換えられている他は全く同一の要求書だった。飛行艇はもちろん偵察哨戒を行うが、二式飛行艇にたいしては敵艦船に対して雷撃も行えるような要求が成された。これは明らかに陸上攻撃機の要求仕様と同じで、艦隊決戦の露払い役として飛行艇も攻撃参加できる機体にしたい、という考え方からだろう。しかし、従来飛行艇は大きな艇体を持っているので速度もでず、また、運動性も悪いので潜水艦や輸送船の攻撃にしか使用されていなかった。戦艦や航空母艦を攻撃するには、そこそこの速度と運動性が要求されるが、はたして飛行艇で満足できる性能が得られるのか誰にも分からなかった。それが、飛行艇を陸上機に書き換えただけの中島飛行機に対する要求書だったのである。どちらかがモノになってくれれば、という思いから飛行艇と陸上機の違いはあるが同じ目的の飛行機を要求していたのである。結果的には川西が作り上げた二式飛行艇は成功し、中島の深山は失敗作となった。
九七式飛行艇は主翼を艇体から浮かして支柱で支えるパラソル翼を採用していたが、二式飛行艇は高翼型式とした。(当時開発された新型飛行艇はほとんどがこの形)パラソル翼より一段主翼の位置が下がっているので、プロペラが水面を叩かないように艇体の高さを高くする必要がある。速度を求められている機体なので、艇体が高くなった分、艇幅を細くして空気抵抗を抑えたい。艇体の大小を表すのにビームローディングという係数がある。これは飛行艇の総重量を艇体の最大幅の3乗で割った値である。九七式飛行艇ではこの値が0.6くらいだったが二式飛行艇では1.17に引き上げられた。(当時の限度は1.0くらい)艇体の幅を小さくすると浮力を得るために艇体は深く沈むことになり、プロペラが水面に近づくことになるので、艇体の高さを少し増してやらなければならい。また、飛行艇が水上滑走するとき、艇体の側面から水の飛沫が高く上がると、プロペラが飛沫を叩いて損傷するし、フラップや尾翼が壊れることもある。ビームローディング係数を大きくするということは飛行艇としての基本性能を脅かすことに繋がる危険性を孕んでいる。
遅まきながら、防弾装備を強化する要望が多くなり出した頃、二式飛行艇にも燃料タンクと乗員保護の防弾が装備された。昭和18年の秋、偵察に出た二式飛行艇が敵戦闘機3機の40分にわたる執拗な攻撃を受けたが、それを振り切って帰還した。ロッキードP38から受けた弾痕は230箇所以上あり、負傷者が1名出たが死亡者なしで撃墜を免れている。このとき二式飛行艇に装備されていた燃料タンクの防弾方式は、B17に施されていた内袋式のものではなく、比較的簡単な外張式のものだった。搭乗員の生命も大事だが、撃っても撃っても落ちないB17やB29は作戦継続能力がこの防弾によって高かったといえる。速度が少々速い爆撃機や飛行艇を作っても、戦闘機にとっては痛くもかゆくもない性能差で、反復して攻撃を加えることができる。その攻撃を何とか凌いで爆撃や雷撃を続行できる能力を持ってこそ名機といえるだろう。