局地戦闘機(紫電改)

九六式艦上戦闘機は、大日本帝国海軍が制式機として初めて採用した全金属製低翼単葉形式の機体である。格闘戦を極めた戦闘機で大成功を収めたが、後々まで格闘戦偏重思想の元凶となったことは否めない

紫電二一型(紫電改)諸元

局地戦闘機(紫電改)

エンジン空冷18気筒 中島誉二一型(離昇馬力2,000HP/3,000r.p.m 公称馬力1,620HP/6,100m)
最大速度595km/h(5,600m)
航続距離1,720km
全幅11.99m
全長9.35m
全高3.96m
主翼面積23.50㎡
自重2,657kg
全備重量3,800kg
上昇時間6,000mまで7分22秒
実用上昇限度10,760m
武装翼内20mm機銃×4(携行弾数内側各200発、外側各250発)
爆弾60kg×2

局地戦闘機(紫電改) こぼれ話

大東亜戦争開戦の興奮がさめやらぬ昭和16年12月のある日、川西航空機では社長の川西龍三、副社長の前原謙治、航空機部長の橋口義男と技師の菊原静男が集まり、戦局の検討とこれからどんな飛行機を作るべきかの検討を行った。社長、副社長は艦上攻撃機を、部長は二式大艇を陸上機化した大型爆撃機を主張したが、結局菊原技師の試作進行中の水上戦闘機(強風)を改造した陸上戦闘機案が採用された。17年に年が明けると早速航空本部技術部長の多田力三中将に会い、戦局の見通しから基地防衛の陸上戦闘機が必要であるとの意見を述べたところ、あっさり「よろしい、すぐやりなさい」と許可が下りた。しかもその場に機銃やエンジンの大佐クラスを呼び機銃やエンジンの具体的な選定までしてもらったことに、菊原技師は拍子抜けしたと同時に大きな責任感が沸々と湧いたそうである。しかし、この局地戦闘機の開発許可には少々裏があるように思われる。昭和17年初頭という時期は14試局地戦闘機雷電がそろそろ初飛行(実際には3月20日初飛行)というタイミングである。三菱重工や中島飛行機のような大手と異なり、しかも陸上機開発はこれが初めて(会社設立当時は陸上機を設計したが複葉固定脚の時代)という会社にあっさり陸上機開発許可を出したのは一つの保険を掛けたのではないかと思う。結果的に雷電の実用化が大幅に遅れ、ひいては零戦の後継機となるべき烈風の開発が遅れたのだから、期待されていなかった紫電および紫電改が第一線に躍り出たことは保険が役に立ったということか。

紫電改展示館

紫電改1
愛媛県南宇和郡愛南町にある紫電改展示館。ここには、昭和53年11月、愛媛県南宇和郡城辺町久良湾の海底40mに原型のまま沈んでいるのが地元ダイバーによって発見され、翌年7月14日実に34年ぶりに引き揚げられた実機が一部修復展示されている。
展示機は不時着水没時の形を残すことを前提としているが、20mm機銃の銃身と主翼前縁とを滑らかにつなぐ機銃覆いはかなり腐食が進んでいたため、新明和甲南工場で新たに作成され取り付けられた。
紫電改2
エルロン、ラダー、エレベーターは布張りだったので、引き揚げ時には朽ちてしまいジュラルミンの骨組みだけが残った状態だ。
紫電改は直径の小さい「誉」エンジンを搭載しているが、胴体の太い強風からの改造のため、十分に活かし切れていないことが側面を見るとよく分かる。零戦と外形寸法はほとんど変わらないのに、骨太のイメージが強いのは、二千馬力級エンジンの搭載機種だからだろう。
紫電改3
機体展示のほか、一緒に引き揚げられた各種部品も一緒に展示されている。防弾タンクやフラップを繰り出すレール、機上無線機、空戦フラップ発信器、燃料切り替えコックなど、当時使用されていた部品が航空機産業の裾野の広さを物語っている。