零式艦上戦闘機

軍用機、特に戦闘機は、初期生産型に様々な改良を加えて徐々に熟成されるのが通常である。ところが、零式艦上戦闘機はデビュー時既に優等生であったが為、伸び代の少ない戦闘機であった。

零式艦上戦闘機諸元

零式艦上戦闘機

二一型A6M2b五二型A6M5五四型A6M8
エンジン空冷14気筒 中島栄一二型(離昇馬力940HP/2,550r.p.m 公称馬力950HP/4,200m)空冷14気筒 中島栄二一型(離昇馬力1,130HP/2,750r.p.m 公称馬力980HP/6,000m)空冷14気筒 三菱金星六二型(離昇馬力1,500HP/2,600r.p.m 公称馬力1,250HP/5,000m)
最大速度533km/h(4,550m)565km/h(6,000m)572km/h(6,000m)
航続距離2,222km1,920km全速30分+850km
全幅12.00m11.00m11.00m
全長9.05m9.121m9.237m
主翼面積22.44㎡21.30㎡21.30㎡
自重1,754kg1,876kg2,150kg
全備重量2,421kg2,733kg3,150kg
上昇時間6,000mまで7分27秒6,000mまで7分01秒6,000mまで6分50秒
武装翼内20mm機銃×2(携行弾数各60発)機首7.7mm機銃×2(携行弾数各700発)翼内20mm機銃×2(携行弾数各100発)機首7.7mm機銃×2(携行弾数各700発)翼内20mm機銃×2(携行弾数各125発)機首13.2mm機銃×2(携行弾数各240発)
爆弾30kg又は60kg×230kg又は60kg×2250kg×1又は500kg×1又は30kg小型ロケット×4

零式艦上戦闘機 こぼれ話

零戦はテスト飛行中に2度の空中分解事故を起こしている。海軍の無理な要求を満たすため極限に近い軽量化を図り、規定荷重倍数ギリギリの設計を行ったことによる剛性不足からくるフラッターが原因であった。1回目の事故は試作2号機で急行か中のプロペラ過回転の現象と振動状況を調査しているときだった。1,500mから約50度の角度で400~500m降下したとき、引き起こした形跡がないのにビューンといううなりに次いで大音響が起こり機体はバラバラになった。原因は昇降舵のマスバランスが切断されている状態で急降下して速度が増したときに昇降舵のフラッターが始まり、それが全機体にに振動を誘発して空中分解を引き起こしたと判定された。2回目の事故は第140号機(21型として制式機となっている)を空母加賀の戦闘機分隊長二階堂中尉が特殊飛行訓練をしているとき外板にシワがよるのを認めて水平飛行に戻しつつあったとき、機体に突然振動が走り補助翼が両方とも吹っ飛び左右主翼上面外板の一部がはぎ取られたが、かろうじて木更津基地へ緊急着陸ができた。このことを受けて、横須賀航空隊戦闘機体の分隊長兼教官であった下川大尉が事故当時と同様の状況で飛んで原因を究明しようとした。下川大尉は二階堂中尉の乗機と同じく補助翼バランスタブ付きの機体でで4,000m付近から降下角55度~60度で急降下を始め、1,500m付近で引き起こし始めたかと思われたとき左翼からバラバラと部品が飛び散り、機首を下げた状態で海中に墜落した。懸命なる原因究明の結果、補助翼回転-主翼ねじれフラッターであろうと判断された。これにより、零戦の急降下時制限速度を360ノット(約670km/h)とし、主翼外板の一部を厚くしてねじり剛性を高め、補助翼マスバランスを増加する措置がとられた。

零戦は各型合わせて10,425機作られ、日本陸海軍機の最高生産数を誇っている。ところが、設計会社である三菱重工での生産は全体の37.2%に過ぎず、生産の62.8%は中島飛行機で行われている。昭和17年まではさすがに三菱のほうが生産機数は多いが、戦局が激化する昭和18年から終戦の昭和20年までは断然中島での生産が多くなっている。他社で設計した飛行機を生産することを転換生産というが、昭和17年から本格的に転換生産を開始した中島は本家の生産機数を上回る実績を上げており、中島飛行機の設立理念を感じさせる。のちに三菱開発の雷電が視界不良、振動問題でなかなか実用にならず制式も危ぶまれていたときに、三菱で川西の紫電改を転換生産する話が持ち上がった。三菱は老舗のプライドから転換生産に難色を示したという。中島飛行機は創立者の中島知久平が国益を第一義に考えた会社だったので、体面より国益と思い転換生産も引き受けたのではなかろうか。

新しく設計した戦闘機の性能を確かめるには、実戦でのテストが一番確かな情報が得られる。メッサーシュミットBf109の初期型もスペイン内乱に義勇軍として送り込まれ、各国の戦闘機と対戦して貴重な戦訓を得ることができ、次第に名機への階段を上ることとなった。零戦も昭和15年7月21日に試作機のまま中国漢口の基地へ飛び立った。同月末に制式(零式艦上戦闘機一一型)となったが派遣された12機は試作機と同じ機体である。敵戦闘機との初戦は昭和15年9月13日、第35次重慶爆撃に向かう陸攻隊援護の任務のときであった。爆撃任務が終了し帰投中に敵戦闘機が空中退避から戻ってきたとの連絡を偵察機から受け、ただちに反転しソ連製のイ15、イ16の27機全機を撃墜した。往復1,000海里(1,852km)の爆撃機随伴飛行と戦闘をこなす航続力は当時の常識を覆す記録であり、戦略爆撃を進める上でも一つの転換点となった出来事だった。