夜間戦闘機(月光)

海軍航空本部が昭和13年初夏の頃、三菱と中島に多発多座戦闘機の計画を示したのがこの月光の始まりである。しかし、三菱はこの頃、十二試艦上戦闘機(のちの零戦)、十二試陸上攻撃機(のちの一式陸上攻撃機)、陸軍の司令部偵察機キ46(のちの百式司令部偵察機)、襲撃機キ51(のちの九九式襲撃機)の設計、十試水上観測機(のちの零式水上観測機)の改修などで多忙を理由に試作を辞退し、中島単独の開発に決まった。

夜間戦闘機(月光)諸元

夜間戦闘機(月光)

二式陸上偵察機一一型J1N1-R月光一一型J1N1-S
エンジン空冷14気筒 中島栄二一型(離昇馬力1,130HP/2,750r.p.m 公称馬力980HP/6,000m)
最大速度507.4 km/h(高度5,000m)
航続距離3,745 km(過荷)2,547km(正規)~3,778km(過荷)
全幅16.98m17.00m
全長12.177m12.13m
全高4.56m4.56m
主翼面積40.0㎡
自重4,582kg4,562kg
全備重量7,250kg7,527kg
上昇時間5,000mまで9分35秒
武装機首20mm固定機銃×1(携行弾数60発)同上7.7mm固定機銃×2(携行弾数各600発)後下方7.7mm旋回機銃×1上向き20mm斜銃×2、下向き20mm斜銃×2(携行弾数各100発)
爆弾250kg×2
乗員3名2名

夜間戦闘機(月光) こぼれ話

月光は記号を見ると「J1N1-S」となっているので元々は陸上戦闘機として開発された1番機なのである。陸上戦闘機を陸上偵察機「J1N1-R」として採用し続いて夜間戦闘機として採用された経歴を持つ。陸軍の屠龍と同様、メッサーシュミットBf110に刺激されて開発した機体だったが、単発戦闘機を圧倒する速度があるわけはなく、運動性能は格段に単発戦闘機に劣るとなると戦闘機として採用になるはずもなかった。中途半端な機体になったのは設計者が悪いのではなく、海軍の双発戦闘機に対する思想が固まっていなかったことが最大の要因である。しかし、刺激を受けたBF110、同様な過ちで作成された陸軍の屠龍とともに月光は夜間戦闘機として生き残ったことは興味深い。

夜間戦闘機(月光)の最大の特長はなんと言っても斜め銃である。ことの発端はラバウル基地から帰り、豊橋基地で錬成を始めた251空の司令に小園安名中佐が着任したことによる。251空は零戦60機、陸偵8機が定数とされ、二式陸偵(月光の前身)の新品が中島小泉製作所から送り込まれてきた。小園中佐は零戦が最も手こずった敵機B-17を、三号爆弾で攻撃する方法を発案して見事成功させた実績から、さらなる攻撃方法を思案していたところ、機銃を斜め下方に装備して撃ち下ろすとよく当たると考え、さらに上向きの装備する方法も浮かんできた。前方固定機銃だと前方からの反航攻撃か、後方からの同航攻撃になるが、反航攻撃は一瞬に行われるため命中率が低いし、後方からの同航攻撃は速度差はなくなるが敵の尾部銃座からの攻撃にさらされることとなる。ところが斜め銃ならば、同航しつつ相手銃座の死角に位置することも可能で、さらに速度差を付ければ数カ所へ連続攻撃を掛けることもできる。ところが、このすばらしい兵器と思われた斜め銃も、実用までには紆余曲折があった。空技廠での大型機撃墜対策会議に出席した小園中佐は自分の考えた斜め銃をぜひ大型機撃墜に使用したいと演説をぶったが、空技廠、航空本部、軍令部の面々から猛反対を受けた。機軸に平行に取り付けた機銃で敵を撃墜する訓練をしてきたパイロットに、斜めに睨みながら敵を落とす斜め銃を受け入れさせることはできない、というのが反対理由であった。それに、機銃を斜めに取り付けるだけの簡単な機構なのでかえって信じがたい思いがあり、小園中佐が万能兵器(対戦闘機戦闘にも使用できる)だと力説したことも手伝って総スカンを食ってしまった。ところが、小園中佐は251空の司令になったので隊には自分の考えに反対する者がいないため、永盛技術少佐の助け船もあって放置同然の13試双発戦闘機に斜め銃を装備することができた。この改造機がラバウルでの夜間戦闘においてB-17を初撃墜したことにより、斜め銃の装備が認められることとなった。

ドイツでも斜め銃を考案した人物がいて1943年(昭和18年)に初撃墜を記録している。ドイツ版斜め銃は「シュレーゲ・ムジーク」と呼ばれ、機軸に対して65~70度上向きにドルニエDo217へ装備された。ドイツの斜め銃戦法は敵爆撃機の下方に占位しながら20mm機銃を打ち上げるもので、角度から察すると敵機の真下に入り込んでの攻撃となるのに対し、月光の斜め銃は機軸に対して30度なので敵機の後下方からの攻撃となる。日本とドイツの他の兵器などは技術交流があったものの斜め銃はそれぞれ独自に開発されたものである。