陸海軍共同開発爆撃機 富嶽

富嶽とZ機と混同されて同じ機体のように扱われるが、富嶽はZ機という中島知久平が考えた爆撃機を中心とした数種の機体案を具体化したものである。

陸海軍共同開発爆撃機 富嶽諸元

陸海軍共同開発爆撃機 富嶽

Z機富嶽
エンジン空冷36気筒 中島ハ505×6(離昇馬力 5,000HP)空冷18気筒 中島ハ219×6(離昇馬力 2,450HP/2,800r.p.m 公称馬力2,050HP/6,400m)
最大速度680km/h(高度7,000m、軽荷)601.9km/h(高度9,000m、軽荷)
航続距離16,000km(爆弾20トン搭載時)18,520km
全幅65.00m
全長45.00m
全高12.00m
主翼面積350.0㎡
自重67,030kg
全備重量160,000kg(正規)
実用上昇限度10,200m(正規)12,480m(軽荷)15,000m(軽荷)
武装
爆弾20,000kg5,000kg

陸海軍共同開発爆撃機 富嶽 こぼれ話

富嶽が正式に陸海軍で共同開発される前に、中島飛行機は富嶽開発のきっかけとなる自主開発機「Z機」を計画しており、この「Z機」と富嶽が混同されるがあくまで別の機体である。「Z機」とは、中島飛行機の創業者で当時国会議員だった中島知久平がじりじり押される戦局を憂い、このままではいずれ日本本土は敵爆撃の蹂躙を許して負けてしまう、ならば先に敵本土を爆撃して降伏させる以外に手だてはないとし、防御用の戦闘機で戦局を押し戻している間に直接アメリカ本土を爆撃できる大型遠距離爆撃機を作って攻撃するべき、という主旨の檄を幹部社員に飛ばし、大型遠距離爆撃機「Z機」の自主開発を指示した。「Z」というのは中島社内での呼び名で、特に名付けの決まりはなかったようだが最終兵器の「Z」という意味だったのだろうか。

Z機を開発していることはやがて陸海軍の知るところとなったが、中島知久平の熱心な説得も届かず反対意見が以外に多かった。そこで、中島飛行機幹部社員に飛ばした檄を文章にして、その後の研究や彼自身の抱負などを付け加えた「必勝戦策」と銘打った98ページにも及ぶ冊子を作成し、井上幾太郎大将に見せてから東条英機首相をはじめとする陸海軍首脳、高松宮、近衛公などに配り、賛同を依頼した。その中で中島知久平が一番おそれているのが、敵戦略爆撃機の日本本土爆撃で、昭和20年の後半には日本の国防体制は根底から覆されて大変な危機に陥るだろうと予測し、この爆撃にはどんな戦法を持ってしても防ぐことはできないと述べている。したがって、B29を迎撃する戦闘機の開発などせず、アメリカ本土を爆撃できる大型遠距離爆撃機を作るべし、と説いている。「Z機」は装備により爆撃機、雷撃機、掃射機、輸送機とすることができるとし、作戦によってこの4機種を組み合わせて使う戦術も述べている。掃射機には2種類あり、敵爆撃機を迎撃する機体と敵艦戦を攻撃する機体とに分かれ、迎撃機は20mm機関砲を96丁装備し優速を利して20mm機関砲弾の網をかぶせることができ1機で50機の爆撃機を撃墜できるとされ、艦船攻撃機は20mm機関砲を7.7mm機関銃に換えて400丁装備し、敵艦上空から機銃弾の雨を降らせ上甲板上の対空要員を殲滅し、1トン魚雷20本を装備した雷撃機と1トン爆弾20個装備の爆撃機で撃沈するという掃射機を使っての戦術を冊子の中で展開している。中島知久平の「必勝戦策」の論拠は必ず数字を示し、単なる思いつきや妄想でないことを理論的に説明しているところに特徴がある。

「Z機」から富嶽へより具体的に目標が定められ中島飛行機の設計陣は奮戦した。しかし、5,000馬力を発生するエンジン、大馬力を吸収するプロペラ、巨体を支える脚、排気ガスタービン、気密室など実現に向けてどれも避けて通れない問題ばかりだった。エンジンは中島で開発、テストしていた社内呼称BHが何とか使えることになりハ219(統一名称ハ44)として制式となったものを串形に配置して1基のエンジンとする案が出され早速実用化へ向けて動き出した。このエンジンはなんといっても冷却をうまくやれるかどうかが実現の鍵を握っていたが、後に富嶽の現実的な完成の落としどころとして性能が示されたときはBH(ハ44)単体で6基装備に変更された。この馬力ダウンが爆弾搭載量20トンから5トンへの減少、最大速度680km/hから600km/hへの下降となって表れている。全備重量160トンを支える主脚のタイヤはダブルとしたが、タイヤ1個だけでも1トンだったので離陸直後に自動的にはずれて落とす機構にした。着陸するときには燃料を使い果たし、60数トンになっているのでシングルタイヤでも問題なかったのである。車輪2個で2トンの重量軽減と同じ効果となるので、主翼の強度を少しでも減らすことができた。しかしながら、富嶽完成へまっしぐらに突き進んでいた設計陣や軍関係者に昭和19年8月、ついに富嶽の計画中止が言い渡され戦争に負けたかのような感慨に技術者達は陥った。そしてその年の11月にはマリアナから離陸したB29を改造した偵察機が悠々と高度10,000mを飛行機雲を引きながら飛び去っていった。

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