陸軍航空母艦

陸軍なのになぜ航空母艦を持っていたのか?
兵員や兵器、軍需物資を前線まで輸送あるいは占領地から戦略物資(石油やボーキサイト)を内地に輸送するには船で行うしかなかった。その輸送船団の護衛には航空機を使用するのが一番良い方法である。アメリカの潜水艦が跳梁跋扈している海域を護衛なしで航行して相当な被害を被っていたため、遅ればせながら船団護衛に簡易空母を充てることにした。

山汐丸、千種丸

山汐丸

1944年、商船(船団)護衛に充てる護衛空母の建造を陸海軍共同で行うことが決定され、第1次戦時標準船と第2次戦時標準船の中から、1万総トン級の油槽船を護衛空母に改造することに着手し、第1次戦時標準船の4隻は海軍に、第2次戦時標準船の2隻が陸軍に割り当てられた。その2隻が山汐まると千種丸である。

両艦の基本船体は1万5千トンの石油を搭載する油槽船で、空母への改造は上甲板に支柱を組み上げて格納庫とし、その上に飛行甲板を張った簡単な構造であった。飛行甲板は全長125m、全幅23mで、前方にエレベーターが1基配置されている。対空兵装は飛行甲板中央両舷に20mm連装高射機関砲各2基のみで気休め程度の装備であった。ただし、この程度の兵装はイギリスの護衛空母(MACシップ)も似たり寄ったりである。ただ、船首に対潜水艦用に迫撃砲(二式12cm迫撃砲など)を2基装備する予定だった。しかし、陸戦用の兵器なのでアメリカ海軍のヘッジホッグやイギリス海軍のスキッドのような戦力になるはずもなく、単なる威嚇兵器として使用するものだった。

この護衛空母に搭載する機体は、三式指揮連絡機が予定されていた。ムッソリーニ救出作戦で一躍有名になったフィゼラー社のFi156シュトルヒを超える連絡機をとの声に日本国際航空工業が開発したもので、輸入したシュトルヒとの比較審査の結果、離着陸滑走距離は離陸58m、着陸62mとなり、シュトルヒの離陸62m、着陸68mよりも短い好成績を残した。詳しくは陸軍主要制式機>偵察機のページを参照されたし。

山汐丸はほぼ完工常態であったが、1945年1月時点ではこのような船を使用するあてもなく、横浜港内に係留されているときにアメリカ機動部隊の艦載機の攻撃を受け(1945年2月17日)船尾に直撃弾1発を受けたものの沈没には至らずそのまま終戦を迎えた。一方千種丸は進水はしたものの偽装工事が中断されて放置された状態で終戦を迎え、戦後本来の船型である油槽船として復興に一役買っている。

あきつ丸、熊野丸

あきつ丸

日本陸軍は1934年1月に上陸作戦専用の輸送艦「神洲丸」を完成させた。神洲丸の優れた実績を見てさらに9隻の上陸作戦専用艦を建造し、そのうちの2隻に飛行甲板を張った。この特異な艦容になった第1船があきつ丸で第9船が熊野丸である。

あきつ丸の本来の任務は上陸作戦を実行することなので、上甲板に張った飛行甲板は航空機の発艦のみに使われ着艦は行わない(行えない?)こととなっていた。上陸作戦を成功させるための航空支援を得る目的であったため着艦は考えていなかったようである。これでは航空母艦とは言えず、航空機搭載の上陸作戦専用艦といったところか。

カ号オートジャイロ

ところが、あきつ丸が竣工したのが1942年1月で、敵前上陸を行う戦局ではなくなっていた。そのために山汐丸の項目でも述べたように、船団護衛空母の必要性が高まり、着艦装置のない艦でも運用ができるであろうと考えられたのがオートジャイロの採用である。萱場製作所が作成したカ号観測機は約15度の迎え角でホバリングできたのでほとんど滑走せずに着陸ができる性能を持っていた。なお、離陸に関しては無風状態でも30~50mで離陸できたので100mそこそこの飛行甲板でも問題はなかった。ところが60kgの爆雷を搭載しての飛行安定性に難があることが判明し、オートジャイロを搭載機とするあきつ丸の計画は消滅してしまった。

しかし、陸軍は何としてもあきつ丸を船団護衛空母に仕上げたいことから、本格的な空母への改造を決断する。つまり、固定翼機の着艦を可能にする、飛行甲板での飛行機の取扱いを容易にするため飛行甲板の全幅を広げる、飛行甲板右舷にある簡易式艦橋を右舷舷側外に移動する、飛行甲板後部に着艦指揮灯を新設し将来的に着艦制動索を設置できるようにするなどの改造工事が行われ、1944年7月に完了した。

搭載される機体は、山汐丸と同様に三式指揮連絡機を6~8機が予定されたが、この哨戒部隊はあきつ丸に乗り組んで哨戒任務を実施することもなく1944年10月には解隊してしまった。

あきつ丸はレイテ島攻防戦の最中にフィリピンへ増援部隊を送り込むため、特攻艇「震洋」100隻を積んで船団の一員として出撃した。しかし、1944年11月15日、五島列島西方で雷撃により轟沈、2,000名以上の乗船者とともに海底に没した。

一方の熊野丸が起工されたのが1944年8月であったため、材料や熟練工員不足から短期間の改造は不可能となり、1945年3月に自力航行するまで完成したが、艤装未了のまま終戦を迎える。

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